「冨永大尚+末井史裕+冨田大彰+森井浩裕+末田史彰+森永浩尚」

http://www.switch-point.com/2010/1025lighthouse.html
会場:switch point
会期:2010年12月9日(木)- 12月19日(日) 11:30 - 18:30 (19日は17:30まで)水休
企画:成相肇(府中市美術館学芸員
出品:末永史尚、冨井大裕、森田浩彰


私が参加するグループ展のお知らせです。
府中市美術館学芸員の成相さんの企画で、ほかの参加アーティストの作品を素材に制作しあう、という展覧会です。
なにしろ普段やらないことですし、どうにも自分にはツマラナイ物しかつくれないような空気も感じてどうなることかと内心ヒヤヒヤしながら準備していたのですが、最終的には面白いバランスで展覧会が成立したなと思っています。
こんなことはめったにやりませんので、この機会に是非見ていただければ幸いです。

引用は後出しジャンケンではない

イメージは見られ、ことばは読まれる。いやイメージは見えてしまい、ことばは読めてしまうように私たちはしつけられていて、そうして峻別されているからこそイメージとことばは互いに互いの位置を確保しています。だからおのずと各々における引用は性質を異にし、文学において美術にあるような借用や盗用を、あるいは美術において文学にあるような引用文や注釈を、比喩以上に表すことはできません。

すなわち美術における引用は、イメージのイメージらしさを、イメージがイメージであらざるを得ないことを前面化するところにこそ面白さがありますが、それをスマートに(もしくは安直に)見せるだけでは面白くならないところに底知れなさがあるといえましょう。

美術の中でこれまで無数に行われてきた引用は見かけのバリエーションの豊富さに反して、じつのところその用法は意外と限定されているように思います。特に、引用側と被引用側の関係において。著名作品の引用にせよ流通した商品商標の借用にせよネット上の引用にせよ、それらはもっぱら没交渉のまま行われるために(没交渉のまま可能なために)、引用関係は距離を持ったまま、むしろ最近では排他性と閉鎖性を強めているようです。引用表現が、喰うか喰われるかの白熱、あるいは後ろめたさや困難さのようなものを垣間見させてくれることがほとんどないのはなぜでしょう。

引用のやり取りはもっとエキサイティングであっていい。そこで今回、作中に既製品や既成イメージを少なからず用いる3名の作家を招き、相互引用のエキシビション・マッチを開催することにしました。3名にお願いした条件を以下に記しておきます。美術に美術を接ぎ木するようなこの企画は内輪話に過ぎまいとのご批判を尻目に、流血覚悟の取っ組み合いにご期待ください。


成相肇(府中市美術館学芸員

末永史尚、冨井大裕、森田浩彰の3名は、以下について承諾する。


1 3名は順繰りに2人1組のペアを作り、作品を交換する。
1−1 ペアの一方が制作した作品を相手に提供し、他方はその作品(以下「素材作品」)を素材として新たな作品(以下「新作品」)を制作する。これを互いに行う。

2 「素材作品」は、素材となることを前提とせずに作品として発表できると制作者が納得できるものであるとする。
2−1 ペアの相手に提供する「素材作品」の点数は、1ペアにつき原則として1点とする。
2−2 「素材作品」は、旧作もしくは旧作の再制作でもかまわない。

3 「新作品」は、「素材作品」に必ず何らかの手を加えた作品とする。
3−1 「新作品」は「素材作品」をメインマテリアルとして利用することが望ましい。
3−2 手を加える方法は自由であり、消去や隠蔽も可能だが、その場合は「素材作品」の存在(存在したこと)を何らかの
形で示唆しなければならない。

4 「新作品」に関わる権利は、すべて「新作品」制作者に帰する。