絵画のおヘソの話

コンセプチュアル・アートに分類される作品を制作し始めてからの河原温氏は自作と河原温という人間との関係を断つかのごとくご本人は極力表に出られることはなかったわけですが、それ以前は美術雑誌にも登場し、雑誌の座談会にも参加され、自作についての文章も書かれておりました。またその様子からはやや雄弁な姿も想像できます。
僕が最も興味を持った河原温氏のテキストに「対立物の無表情な同居」というものがあります。(『美術手帖』127号(1957年臨時増刊号「現代美術を理解しよう」)掲載)このテキスト、具体的な名前や作品に言及しつつ自作を解説しているのでこの時期の問題意識がとてもわかりやすいのですよね。
テキストでは最初、岡本太郎について、彼がとなえた対極主義の意義を認めつつ(そんなん当たり前だろといいつつ)も本人がそれをうまく使えていないではないか、対極をつくるのはいいけど極の設定を間違っとるんや、とやんわりと批判しています。というか内容的にはぶった斬りですね。

私は前に、<岡本太郎の対極主義は原理的だ>といったことがありますが(美術批評五五年七月号)今でもその指摘はまったく正しいと思っています。それは数学でいえば、公理みたいなもので、あらゆる芸術に共通するもっとも根元的な条件を意味しています。全然、対立的要素のない芸術作品などはどこにも存在しないでしょう。数学でも公理の次に定理が必要であるように、岡本太郎さんは、抽象主義と超現実主義との対立というようないい方で、ひとつの定理を設定しました。しかし非常に残念なことではありますが、ここまでが精一杯であったようです。<ぎりぎりの対立>とか<対立物相互の猛烈な反撥力>とかいういい方は、じつは定理以前のものでした。どんな問題も、たったひとつの定理だけでは回答できないように、抽象主義と超現実主義との対立だけでは、対極主義理論をより発展的に、みのり豊かなものにすることは困難でした。

そして岡本太郎の別の言葉から可能性を導き出しています。観客と視覚と絵の間に不自然ななにかを挟み、慣習的な関係を破壊すべきであるのだと言っておられるわけです。それを生むような極の設定をしなはれ、と。

その点<観客もまた創造者である>という岡本さんの言葉は、私にはじつに興味ぶかく感じられます。観客も創造者にはちがいありませんんが(原理的には)なぜそうであるか?これこそ対極主義がさらに発展する大切な糸口であったようです。観客をただ画面のなかへ引き入れればいいというような、従来のなまぬるいシンメトリーな(左右対称な)空間造形を破壊して、観客の視覚と画との矛盾、対立をさらに先鋭化し(対立物としてとらえ)観客の固定化された想像力を打ち破ることこそ必要だったわけです。そうした激しい摩擦がなければ、とうてい、観客の積極的な、創造的な参加はのぞまれないでしょう。

ここで唐突にぼくの大好きなキラーワードが登場します。

それは端的にいえば、洋の東西を問わず、あらゆる絵画がもっていた(また、現にもっている)画面におけるバランスの焦点ーおヘソの手術です。今まではどんな作品も、いわゆる中心のある構図としてまとめられてきました。それが当然のこととされてきました。レンブラントも、セザンヌも、ピカソも、北斎も、すべて偉大な画家たちは、一人のこらず、最後にはちゃんと画面の中央に小さな斑点をー人間的なおヘソを描くことを忘れませんでした。

「絵画のおヘソの手術」なんと魅惑的なワードでありましょう。
しかし僕がこの言葉から受け取った大胆な革命の印象とはことなり、ここではあまり大きな意味で「おヘソ」を使ってません。あくまでバランスの重心となる点とそれを否定する造形的要素という対立を作りながらなおかつまとめ上げるかというかなりその時期の自作についての具体的ことについての比喩としての使用になっています。対極主義が公理であるという前提に引きずられたがゆえでもあったのでしょうけれども。
しかし後に、対極主義の呪縛を逃れた時、このおヘソがバランスの重心ではなく、絵をまとめあげる主体を前提とした「窓としての絵画」そのものを含み始めた時に、日付絵画なども生まれてきたのではなかろうかとも思います。いわば絵画からおヘソそのものを取り除いてしまうという大手術をやってのけたわけです。
この意味でのおヘソの手術には僕も大いに関心があります。自分がやろうとしているのはこれを別の形で、ということなのかもしれません。

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