山口市のフリーマガジン「teteyoto」9月20日発行の号に僕がほんのちょっと寄稿いたしております。

山口市のフリーマガジン「teteyoto」9月20日発行の号に僕がほんのちょっと寄稿いたしております。お近くの方、是非手にとって御覧ください!
そしてその原稿を(文字数確認せずに)書いていたときに自分でひっそりとボツにしたロングなやつがまとめ切れぬままあるので、こちらに掲載してみます。

僕が美術に関わりたいとはっきり思ったのは、高校2年生のときでした。このまま高校を卒業して、大学に入って、仕事をはじめて…というルートが見えてしまった時に、この世界に生まれて育ってきたからには何か形になるものを残したい、時間を超えて残るものを作り出してみたい、そう考えた時、それに該当するもので自分らしさが一番発揮できると思ったのが絵画だったのです。
妙な自信はあったのですが高校からすんなりと美術大学に進むことはできず、山口にある小さなスクールで1年間美術大学の受験浪人をしていました。僕以外は現役生ばかりでしたので日中は一人自習状態。朝から夜まで課題に沿って描きつつ、アトリエにあった画集を見て学びつつ、(近かったので)県立美術館の常設展を眺めたりしつつで基礎を原理的に学んだ一年間でした。それでも残念ながら合格できず、翌年に東京の予備校に通うことにしたために上京。高校の時には愛知でも金沢でも美術大学ならばどこでも良いと思っていたのですが、その時にはもう東京の美術大学を目指していました。それが1994年の春なのでちょうど20年前のことです。
なぜ上京したかったかといえば、単純に山口では情報も美術作品に触れる機会がなく、情報の多いところに身を置きたくなったからです。いまでこそインターネットの普及でどこにいてもある一定の情報に触れることは簡単にできるのですが、たとえば本で名前を知ったボナールってどんな画家だろう、作品を見たいなと思って山口県立図書館に行ってもピカソくらいしか画集がない。仕方がないから古書店に行って古い美術展の図録を漁るといった環境だったのです。
そんな状態で上京したものですから、情報欲が爆発したような数年間を過ごしました。予備校に通いつつ土日は美術館を回る日、平日も一日だけ午後は銀座の画廊を回る日と定めていました。画廊を回りながらシャイな性格もどうにかしようと在廊している作家さんにやたらと話しかけていたりもしました。逆の立場なら迷惑千万な話です。いや、本当に申し訳ない…一方的にお名前を覚えていますが。
そうやって東京(一時期は神奈川)に居ついて20年が経とうとしています。おそらく僕と同世代の人間だと同じような思いで東京に出てきた人もいらっしゃるかとも思いますが、ここ5年くらいでしょうか、美術において東京と地方の関係は若干流れも変わってきているように感じています。
ひとつは、情報環境が変わったお陰で地方にいても多くの情報を受け取ることが可能になりました。また、メールなどで遠距離でのコミュニケーションにかかるコストが下がっていて、モノの移動以外でやりとりにかかるコストはゼロに近くなっています。結果、東京のアーティストの地方への移住が一気に増えてきました。東京でスタジオを構えても家賃は高いし、出来たとしても手狭になってしまうので、広い場所を格安で確保できる地方にいたほうが制作に集中できるわけです。ある意味、当然の流れだと思います。
加えて地方でのアート・フェスティバルが増えました。それによって各地方都市に美術のコミュニティが増えてきたことも大きいかと思います。
山口には、フェスティバル的なものはないのですが特殊事情としてアートをこの地に根付かせようとしていた大先輩たちの活動がありました。高校の超先輩にあたる嶋田さんによるギャラリー・シマダの活動、イッカ、ギャラリー・ナカノ、等など…。僕が山口にいた頃には気付けなかったくらい細々していたものがYCAMが出来た辺りくらいから一気に表出した感があります。ぼくが今10代だったら、おそらく山口に居たんじゃないかなと思えるくらい面白いシーンになりつつあると思っています。
そんなわけで、僕はもう東京が半分地元になっている身なのではありますが、たまに帰って山口の様子をみていくのが本当に楽しいわけです。なんでしょうね、生まれ育った地というのはいまから替えることができないからですかねえ。