かなり昔に古書店で買ってそのまま放置していた「エナジー対話 明治メディア考 加藤秀俊前田愛」(1979年)をパラ読み。(ちなみに最近「エナジー」という雑誌があったこと、と「エナジー」「エナジー対話」ともデザインが勝井三雄だったことを知る)


そのなかの1節

加藤「ただし仏壇の大事な点は、扉があるということです。供養するときにはひらくけれども、それ以外のときはだいたい閉めておくわけです。つまり、ご先祖様は潜在的にいらっしゃる。命日とか法事のときに開ける、あるいは朝お経をあげるときに開ける。だけどそのほかは閉めておきますから、死んだ人はふだんはどこかに隠れてあるものなんじゃないかしら。」

加藤「私の友人で、西洋式のホテルに泊って落着けないのは、まわりに鏡が多すぎるからだと指摘した人がいますが、日本の鏡だったらもともとはカバーをかけてあるものですね。(中略)自分の姿がしょっちゅう映るのを拒否しているわけですね。つまり、われわれは肖像画から銅像までふくめて、明らさまなアイコンにそのへんをうろうろされるのがいやなのではないか。」


に自分も実感があることに気付く。
小学生くらいのころの経験だけど、祖父母の家の仏間の雰囲気は1人で入るのを躊躇するほど怖くて。あと人形もだめだった。
いま自分が肖像を描いたり、描かれたものを飾ったりできないのはこんな経験が影響しているのかな、と思ったり。