「J」のこと

4月からは月1放送にかわり、毎週放送という形態ではひとまず終了してしまったTBSラジオのLife。podcastで毎回番組全体を配信してくれることもあって、半年分一回もかかさず聞いてしまった。
その第一期の終了間際の「J」特集が激烈に面白いので何度も聞き直して考え込んでいる。引っかかったところをざくっと書き出すと、

  • 「J」の一般化は海外の情報に関心を持たない層の増加と表裏一体の事象→発信者も受け手も内向きになっている。
  • 発信者がものをつくりはじめるときにグローバルにむかってつくればいいのか、日本にむかってつくればいいのかという問題。
  • マーケットにおいてグローバルがイコールアメリカ、ヨーロッパであった時代の終わり。

で、思ったこと。
内向きの原因はストレートに海外に面白いものがみつかんないから、というのもあると思う。あと発信ポイントが増えすぎた。N.Y.ロンドンパリを押さえときゃオケ、みたいな時代が終わったところでもうウィーンアムスにブリュッセルバルセロナ…と全部チェックしている暇人なんか居なくなってるわけで。未読でパンクしたRSSリーダーは読む気もしなくなるのと同じ。そうなるとガイドが指差した方向を向くか手元しかみなくなるかになる。

グローバルorドメスティック問題に関しては、つくることに於いては別の選択肢もあるように思う。
受け手を「神」のように仮想化できることもある。
DADAやフルクサスみたいに自らが高度だと信じているコミュニティに向けてつくることもあり得る。
ただし、その選択だととりあえず日本では食えない。
というか、Lifeでの議論の対象は基本的にマス・アート。
いきなりここで話をいわゆるハイ・アートに振れば、その歴史に於いてはつくり手はグローバルマーケットを意識したことなんかなかったんじゃないかと思う。ウォーホルまでは。今は逆にハイ・アートのほとんどがマーケットに乗っているものはグローバルを意識しているように見える。特に日本に於いてはドメスティックでは商売にならないので目指せグローバルになる。けど、ぎりぎりグローバルになんなくてもドメスティックでなんとかなりそうな領域がふんわりとあって、そこがサブカルに接近しているのも感じていたりもしている。そこは「J」特集の前の回「教養」での若者の嫌「教養」と結びついたりもする。
結局どこに楽しみを見いだすかは人それぞれ、という話に落ち着くんだけど。