「名前問題」

美術家の名前アドバンテージについて。
結局美術家も記憶に残りやすい名前の作家が残っているんじゃないのか、とはずっと思っていて、つらつらと例をあげてみてもやっぱりある程度のバイアスはあるんじゃないかと。だって20人くらいの並びの中で一瞬で脳の片隅に残る名前と埋没する名前の差は明確にあるもの。
たとえば1960年代の「ネオ・ダダ」の作家の名前をだっと並べてみる。誰が目立って誰が埋没するか、そしてその後どういう仕事をしてきたかなんて考えるとななか興味深かったりします。あとあらかじめ、ご本人への無礼はおわびします。

吉村益信、篠原有司男、赤瀬川原平荒川修作風倉匠、有吉新、石橋清治、上田純、上野紀三、豊島壮六、岸本清子、田中信太郎、田辺三太郎、吉野辰海、升沢金平、木下新
wikipedia調べネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ - Wikipedia

「篠原有司男」「赤瀬川原平」がやたら目立つ気がするんですけどね。名前が長いのも影響してそう。

長けりゃ良いのか、珍しければ、画数が多けりゃいいのかというとそうでもないらしく、この例とは別に、名字「中村」は活字にすると結構目を引きつつ、美術家も多かったりします。あと2文字は強いな、とか、細かく考えていくときりがないですけど。

ただ、こうして考えると美術はなんできちんとアーティスト・ネームに意識をはらわないんだろう、という疑問も(自覚があってアーティスト・ネームで活動されている方もいらっしゃるのは知っていますがまだ大多数は)。生まれた時から表現者としての道が決まっているわけじゃないと思うから、どうしても表現者としては目立たなくて向いていない名前ってあるのは仕方ないと思うんだけど、結構そのまま。歴史的に見ても洋の西洋をとわず画家が目立つ筆名で活動することはあったと思うし、落語、歌舞伎にしても今の芸能の世界でも本名で活動することの方が少ないわけで、ほとんど皆が本名で作品をつくっている現在の美術(あるいは、明治以降の美術か)が実はレアななんじゃないですかね。