遅ればせながら「Invisible moments」展をみて

「風景」は外在しているものではなく、合致不合致にかかわらずもともと記憶されてある形式に規定されている。古くは風景を描いた絵画、19世紀以降はその流れをくむ写真の型。
型、とはフレーミング(地平の高低、フォーカスされるものの位置)であったり、不自然にならない絞りの加減であったり、色のバランスであったりする。その印象をくずせば無意識に入り込んでいる型としての視覚がくずれ、「風景」から奇妙な別の層があらわになる。「ルーペとしての写真」とはその意でとらえる。
幾多撮影されてきた作品としての風景写真のストックはその点の周囲で展開されてきたように思う。その「ずれ」は作品としての風景写真の増加にともないより高度に、より細かな差異にまで及んできている。坂本政十賜氏の写真にはその意味での高度さを感じた。もはや誰がみてもあきらかな「ずれ」は写真作品のクリシェとして回収されてしまう。そこを見事に避けた上での不思議な「ずれ」。
しかしまた、いま「写真を見る」ことはまた風景を眺めることと同様の事態にあるのではないか、「写真を見る」というその視覚もまた型によって規定されてはいないだろうか。そんな問いを、デジタルフォトのディテールをデジタルフレームでスライドで見せていた、福居伸宏さんの作品をみながら感じていた。写真を見る事を風景化させない、そんな不思議な作品だったと思う。

http://d.hatena.ne.jp/kachifu/20080604/p1
■Invisible moments- Übungsplatz〔練習場〕
■「Invisible moments」その後 - Übungsplatz〔練習場〕