作品が「良い」とは何か

新年早々の幾つかのツイートを記録のために補足しつつコピペ。

自作のエスキースAdobeで作っていてぼんやり考えたことが以下のツイートとなりました。

AdobePhotoshopIllustratorをあからさまな形でなくただ検討の速度を上げるために利用することでアナログ時代とは試行回数が劇的に変わり、質も変えられる。物質的には絵具を用いたタブローであっても。

というか既に変わっているのにあんまり話を聞かない。

これに反応した某氏よりいただいた反応への返答が以下。

投影をもとにした絵画だと15世紀のカメラオブスクラの使用からですね。1960年代からのアメリカの大きなフォトリアリズム絵画はスライドプロジェクターの普及と関係ありそう。
画家にとって写し取ること=機械的な作業という認識があり、そこを楽にしてくれる道具は積極的に取り入れてきた歴史があると思います。そこで稼いだエネルギーを単に生産量の増加に使うのではなく、豊かさを生む方に使えたらと。
そういう意味で今井俊介くんの絵はデジタルツールと関係した絵の進展の方向にありそうだなと思います。

今井くんの絵、いまいちわからんと言われたのでそれへの返答

今井くんの、今のスタイルの前に色々やろうとしていたのを見ていたので今後また変わるんじゃないかな、と思っていたり。個人的にはphilip taaffeが版画の技術で進んだ手業でタブローを進めたようなやり方でデジタルツールとタブローの関係を作る絵が見たいのですが。

しばらくして展覧会感想ツイートをよくされている方が私のツイートに反応されていて、その中に「見る人にとってはプロセスはどうでもよくて、作品が良ければいい」旨書かれていたのにエアリプしたのが以下。

作品が「良い」とは何か。私は制作者としても観者としても、好き嫌いではなく何かが発生しているかどうかに関心があるのである。たとえ一見よくできていても、既存の作品の記憶に依存した良さではつまらない。今だから、その人だからこその何かを見たい。
だから無い知恵絞って角度の違う語り口がありそうだったら考えてみる。作ってみる。ただそれだけのこと。

ちなみに「良ければいい」を「好き嫌い」ととらえたから私が引っかかったのではなくて、プロセスや前後関係を問わないということは瞬間的な判断になってしまう危険をはらんでいるなあ、と思ったからでした。極端な例で言えばある作品が展覧会場でとてもよく見えたとして、それがじつは丸パクリだったらそれはどうなんでしょうか、みたいなことへの引っかかりです。
私は作品が似ていることにこだわります。そこにこだわらないと、違いが見えてこない。
そして類似を認識しないと、制作上の自由な意志が持てないような気がしてます。